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鎮魂の歌は誰のために

昨日はモーツァルト協会の例会コンサートが、上野のホールであったのに、すっかり忘れていた。
手帳には書いてあり、チケットも持っていたのに、夫の外出とかその他で、自分のことを置き忘れてしまった。
亭主と同じ時間に出れば、充分間に合ったのに残念。
今年になって、理不尽に殺害された日本人ジャーナリストのことや、まだ13歳で、未来を奪われた少年のことで、心が痛んでいたからだろうねと慰められたが・・。

今日は上野で、3月8日に迫った演奏会の総合練習。
オケとソリストも来て、本番のステージの並び方での練習となる。
「背の順」と言うことで私は最前列だが、結構背の高い人も前にいる。
自然災害に遭った地方のためのチャリティだが、曲目のモーツァルト「レクイエム」を、私は今回密かに、川崎で殺害された13歳の少年のために歌うつもり。
赦してもらえるだろう。

真珠湾

ハワイで印象的だったのは、パールハーバーの「アリゾナ記念館」と、湾岸戦争時まで使われて、今は観光客にも公開されている「ミズーリ号」だった。

はじめ、ツアーに申し込んでいたが、なにかの手違いで、時間になっても迎えのバスが来ない。
業者に電話すると、私たち一家の名前を、他の人と間違えて、別のホテルに迎えに行ってしまったことが解ったが、ツアーはとっくに出てしまっている。
料金は、全額返してくれると言うが、それでは、早朝、朝食もそこそこに、時間前に来て待っていた、私たちの一日が無駄になってしまう。
交渉の結果、往復のタクシー代と入場料を払えば、日本人ガイドを1人付けてくれると言うことで、話がまとまり、タクシーで、パールハーバーに行くことになった。
日本人案内人を要求したのは、通常の観光と違い、パールハーバーは、軍港であり、持ち物や、写真撮影などに、ある程度制約があるので、不確かな英語で、トラブルに巻き込まれたら困るからである。

私は「父親が、戦争体験者だから、太平洋戦争の始まりとなったパールハーバーを、是非見たい」と強調した。
最初、お金を返して、ことを終わらせようとした業者も、ミスを認めて、謝罪の気持ちを持っていたので、結果的には、私たち四人の為のタクシーの往復と、日本人ガイド付きの見学で、団体客よりは、きめ細かなツアーになった。
ツアー料金も、団体より安く済んだことになる。

行ってみてわかったのは、パールハーバーは、観光客が多く、入場するのに、二時間以上掛かるため、早朝に行って、順番待ちしなければならないと言うことだった。
急に自宅から呼び出されて、私たちのガイドになってくれた現地在住の日本人女性は、実に要領よく、パールハーバーの「アリゾナ記念館」と、「ミズーリ号」を廻ってくれて、団体ツアーに劣らぬ結果を得ることが出来た。
自分たちだけで行っていたら、多分マゴマゴして、予定の見学は、半分も出来なかったと思う。

パールハーバーに着く前に、「反日感情はありますか」とガイドに訊いた。
アメリカ人にとって、パールハーバーは、「騙し討ち」の象徴であり、何かと、日本叩きの合い言葉になって来たからだ。
しかし、歴史が検証される中で、アメリカは、日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたと言うことも、ほぼ明らかなようであるし、特に、2003年、先代のブッシュ元大統領が、「真珠湾で起こったことは歴史上の事実だが、互いに恨み合うよりも、ひとつの教訓として、今後に生かそう」という主旨のメッセージを公にしてから、反日的な反応は、ほとんど無いという話だった。
「だって、アメリカ在住の日本人は、ずいぶん、この国のために尽くしてますもの。それは、多くのアメリカ人は認めています」と言うことだった。

「ミズーリ号」では、終戦の調印が行われた場所を見ることが出来、「アリゾナ号」では、日本軍によって沈められた戦艦の残骸と、今も、油が海に流れ出している現場を見ることが出来た。
年配者の多いアメリカ人は、黙って海に花ビラを注いで、千人という死者達の霊に、祈っていた。
私は「ミズーリ号」で、特攻機で体当たりして、死んだという十九歳の日本人兵に、黙祷した。

記念館になっている建物の庭には、「人間魚雷回天」が、展示されていた。
人間1人がやっと乗れるような、こんな小さな潜水艇で、若い兵隊が、片道だけの燃料を積んで、体当たりしたのかと、胸が詰まった。
日本では、こうした無名戦士を偲ぶための施設も、記念館もない。
戦争の勝ち負けにかかわらず、国のために死んだ人たちを、政治や宗教を超えて、鎮魂する場所が、矢張り必要だと感じた。

バッハ「マタイ受難曲」から39番。
バイオリンに続いてユリア・ハマリのソロ。
「憐れみ給え、神よ、
我が涙のゆえに」
タルコフスキイの映画「サクリファイス」の冒頭と最後に流れるアリア。



金木犀

ホラ、ちょうど真正面に見えるでしょう。
大きな金木犀。
この間まで、いい匂いがしてたんですけど、あらかた散ってしまいました。

そうですか、もう49日が済んだんですか。
ご丁寧に、ご挨拶恐れ入ります。
お別れに行きたかったんですけど、何だか、黙って、一人で故人を偲んでみたくて・・。
人に言付けてしまって、ごめんなさい。

入院なさってから、一度だけ、お見舞いに伺いました。
たまたまどなたもいらっしゃいませんでした。
あの方は、静かにやすんでおいででした。
「面会謝絶」になっていたら、そのままお花をナースセンターにあづけて、帰るつもりでした。
でも、看護婦さんが、ちょっとだけならと許可してくれたので、お部屋に入れていただきました。

窓際に面したお部屋には、かすかに消毒薬の匂いがして、カーテン越しに柔らかい日差しが漏れてきていました。
あの方は、少し顔を窓に向け、目をつぶっていらっしゃいました。
私は、音をたてないように、そっと、側に立てかけてあった椅子に腰を下ろし、しばらく、そのお顔を見ていました。

私の気配を感じたのでしょうか。
こちらをむいて「・・・」と唇を動かしたように見えました。
声が聞き取れないので、「ん?」と、私が顔を見ると、あの方は首を振って、少し微笑んだように見えました。
そして、点滴の針の刺さった手を、こちらに伸ばそうとしました。
私は、そっとその手を、元の位置に戻し、何か言おうとしました。
でも、言葉が出なかったのです。
見つめていると、涙がこぼれそうでした。
あの方は、そんな私に、何も言わなくていいよというように、微笑んだまま、ジッと、私の顔を見ていました。

この6年ほど、どちらからともなく、音信不通になっていたのです。
些細な行き違いだったんですけど、そのままになっていて・・。
お知らせを戴くまで、そんなに重い病気に掛かってらしたとは、知らなかったのです。
久しぶりにお会いしたのが、病室だったとは・・。
いいたいことが沢山あるのに、言葉が出てきません。
そうやって、どのくらいの時間が経ったでしょうか。
ずいぶん長いようにも、ホンの一瞬だったようにも思われます。

看護婦さんが来て、「検温しますから」というのを合図に、私は、部屋を出ました。
一瞬、私たちの視線が、空中でぴたりと重なりました。
その時、私は、これがお別れだと、解ったのです。
「さよなら」とあの方の目が言っているような気がしました。
それから、どんな風にして、家まで帰り着いたのか、覚えていません。

1週間後、亡くなったというお知らせを戴きました。
金木犀が、花を付け始めていました。
ずっと前、あの方と、都心の公園で、金木犀を眺めたことがあるのです。
それは見事な木でした。
家の庭にもあるというと、「庭木には向かないんじゃないかなあ」と仰いました。
確かに、こうして眺めてみると、家の庭には、大きすぎます。
やはり、そう思われますか。
え?これを私にって、そう仰ったのですか。
エッセイ集を自費出版なさっていたことは、伺ったことがありました。
でも、見せて欲しいと言っても、いつも笑って、見せてくださらなかったのです。
ああ、奥付に私の名前が入ってますね。
今になってこんな・・。
ごめんなさい。
わざわざお持ち下さったのに、どう申し上げたらいいのか・・。

(2003年10月20日「劇場空間」に掲載)