FC2ブログ

薔薇の句

薔薇なら何色でも好き。
でも美しい花は句にするのは難しい。
いまだにこれぞと思う句は詠めていないが、でも、薔薇の句って、結構沢山ある。

いつかテレビドラマの場面に、こんな句が引用されていて、ずっと惹かれている。
ここまで言い切ってしまうと連句の発句にはならないかもしれない。
脇句の出番がないからだ。
やはり女しか詠めない句だなあと思う。

薔薇崩る激しきことの起こる如    橋本多佳子

記憶いろいろ

人間の記憶力というのは、やはり老化と共に衰えるのだろうが、一方では、昨日のことより、50年、60年も昔のことの方が鮮明に残っていたりする。
理屈はよくわからないが、人間は、記憶の中で、自分にとって、残したいもの、忘れてもいいものを、自動的に取捨選択して、脳の中で振り分けているような気もする。
そう言う意味では記憶力というのは、いわゆる知力というか、IQとはまた違ったことのようにも思える。
しかし、人間は感情の動物でもあるから、自分が愉しく思ったり、感動したことだけでなく、非常に不快に思ったり、無為に傷つけられたり、痛みを感じたこと、本当は消してしまいたい、自分のあやまちなども、拭いがたく残っていることがある。
戦争の記憶、大事な人との生き別れや死に別れ、感動を伴った映像や音楽、書物、それらも、細部は忘れても、その時感じた心情や、胸の震える思いというのは、時間が経っても、忘れない。

私が、誰かと知り合ったり、何かの場面で、会話を交わした相手と、出来れば、互いに良い印象を持った状態でいたいというのは、いつも思うことである。
それは、顔も実名も知らぬ、電波空間であっても、同じである。
生身の人間は登場しなくても、電波の向こうにいるのは、紛れもなく、血の通った人間であり、通常の感情も、怒りも、悲しみも、同じように持った人だと思うからだ。
しかし、自分も含めて、人間は、いつもバランス良く生きているわけではないから、時には、感情にまかせて、人に吐け口をぶつけたり、リアルの場では、キョーヨーが邪魔して言えないようなことを、ネットでは、気軽に悪態をついたり、第三者の「暴言」的言辞に託して言ってしまうということも起きるのだろう。

そう言う現場に遭遇したとき、私は心の中で「しょうがねーな、子供だな」と思ったり、そう言う発言を引き出したのは、こちらにも原因があったのかなと反芻し、直接対決はしないようにしたいが、同じようなことが、違う場面で2度、3度あると、これは、明らかに、確信犯というか、人を不快にさせる目的で言っているなと思うから、心穏やかではなくなる。

そんなときどうするか。

5,6年前、一度そんなことがあり、当時は、私も血の気が多かったので、聴き流しせず、直接言い返した。
相手は「そんなつもりで言ったのではない、あなたの誤解です」と逃げた。
そんなつもりで言っているのに、指摘されると、相手の誤解と言うことにして済ませる、ずるい手である。
2度、3度あると、この人はこういう人なんだなとわかる。
そう言う相手とは、ケンカするだけ無駄なエネルギーを費やしてソンだから、無視するのが一番いい。
なるべく、そんな場面に出会わないようにしたいと思うだけである。
これは、私が、一面狡くなったことでもある。

因みに、これは、私の参加しているSNS以外の場所での話である。

肝に銘じたいこと

今日から世の中は、平常に戻ったようで、繋がりの悪かったインターネットも、普通に動くようになりました。
私の生活に占めるネットの割合は、だんだん増えていきます。
自分の健康状態や、家族のケアなど、以前のように自由気ままに出歩く機会が少なくなるにつれ、ネットがあってよかったと思うようになりました。
どこにいても、いつでも、思ったこと、感じたことを、そのまま、表現でき、すぐに発信できるネット。
利便性と、速さの点では、活字や映像に比べても、優れた媒体であり、私のような一介のシロウトが、活字やプロの書き手の助けを経なくても、空中に自分の場所をもち、そこでいろいろの人たちとの交流も出来るようになりました。
これは、多分、私の親たちの時代には、思っても見なかったことだったと思います。

ネットに溢れる情報は、膨大にして玉石混淆、その中で、自分にふさわしいものを選び、顔の見えない発信者の中から、共に影響し合い、成長していける仲間を見つけることも、自分自身の責任と器量に掛かっています。

今年も私は、パソコン画面を使い、拙い文章表現を通じて、ネットで発信し、ネットで巡り会った良き「友人」達との交流を深めていくでしょう。
しかし、これは、一面両刃の剣を手にしていることでもあります。
それだけに、私が参加している、さるWEB句会主宰の下記の言葉は、ネットに携わる者として、深く心したいものだと、感じ入った次第です。

ネットでのやりとりは言葉がすべてです。
ネットでは「あの人はよく知っているから」というお付き合いにすがれる要素が少なく、たったの一言で人が活性化し、不用意な一言で破滅します(これはちょっと大袈裟か)。
ということは、言葉ということを大事に思っている人にとっては、ネットでの創作や交流は実は表現や感受性の訓練に大層有効な土俵であるということにもなります。

ことば、ことば、ことば

膝を抱えて

窓際に座っている

慰めの言葉の代わりに

歌をください

子どものまなざし

皇太子妃だった若き美智子皇后が、浩宮を生んだ時、この世をまだ見ない子どもの目に見つめられて恥じらう母の心を詠んだ歌があった。

いとけない幼子のまなざしは、いつの時代にも、またどんな世界にあっても、人の心を打つところがある。

松本清張の短編にも、子どものまなざしを重要なテーマに据えた作品がある。

日ごろ、あまり子どもは好きでなく、「この小悪魔」なんて感じを持つこともある私だが、ひとたび、子ども故に、不幸を背負ってしまった環境に置かれた子どもには、味方になってやりたい。

戦争や、大人の欲望の犠牲になっていたぶられる子どもの話は、一番心が痛む。

子どもの澄んだまなざし。
それがくもることのない社会でありたい。