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近場の花見

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今日、天気が良く、暖かいので、夫と一緒に昼前、ICUの桜を見に行った。

ICU(国際基督教大学)は、最近、秋篠宮様の2人のお嬢さんが通っていることで、話題になっているが、1953年創立というから、昨年60周年を迎えている。
初めは学校名からして、その頃、日本ではごく少数派のキリスト教信者のための学校と言うような認識だったようだし、場所が東京郊外の、当時はまだ田園風景の残る三鷹だったこともあり、受験競争の対象ではなかったようである。

学生時代、当時入っていた学生合唱団の交流の機会に、初めて行ったことがあるが、三鷹駅からバスで20分ほど、広大な敷地内に、チャペルと校舎がぽつんと建ち、裏手には小川が流れていた。
やっと第一回卒業生を出したくらいの時だったが、学生達、特に男子学生は、みな背が高く、垢抜けしていて、国立大学の学生とはずいぶん雰囲気が違う感じがしたことを覚えている。

しかし、10年ほど経つ頃から、ほかと違った自由な環境と教育方針が良かったのか、段々人気が出てきて、存在感が増してきたように思う。
私の妹の1人も、ここを受験したが合格せず、別の大学に入っている。

後に三鷹に住むようになり、社会教育事業に熱心だった市の講座で、1CU出身の女性とも友だちになり、チャペルの音楽を聴きに行ったりした。
さらに、海外生活での経験がきっかけになり、昔と違ったことを勉強したくなり、ICUでのみ開講されていた分野を学ぶため、研究生として入学、一年間通った。
30代半ばを過ぎての学生生活である。
子どもが小学生だったので、自転車で通える距離というのが、大変ありがたかった。
その過程で、同じ志を持った研究生仲間の人たちとも友だちになり、若い学生たちと机を並べての勉強は、きつくはあったが、楽しくもあった。
単位を取るために、試験も実習も受けたが、この大学は英語力がかなり要求されるので、それには苦労した。
そこで学んだことは、仕事としても、ある程度生かすことが出来たが、40代後半、思いがけず大病に見舞われたことで中断、以後、その仕事には戻っていない。

桜の季節になると、歩いても行ける距離なので、ICUに花見に行く。
正門から続く道は、両側に桜の木があり、満開の花が道を被うほどになる。
この時期は、一般の人にも開放しており、車で入る部分は限られるが、徒歩ならば、学内の散策は自由である。
研究生として通った頃から永い年月が経つが、昔のままの風景は形を留めているし、その後増えた建物、施設、伸びた樹木などが、景色を変えてはいるが、本質は変わっていないように思う。
歩きながら、向学心に燃えていた、在りし日のことを思い出した。
当時のクラスメイト達は、その後どういう人生を歩んでいるのか、定かではないが、当時学生だった人たちは、今もその分野で活躍しているだろうし、私と同世代の人たちは、もうリタイアしているかも知れない。

構内を見て歩き、時々カメラを向ける夫に歩調を合わせながら、裏門から出て、バス停に行った。
よく晴れて、夏のような気温。
ジャケットやセーターを脱ぎ、間もなく来たバスに乗って帰ってきた。
昨日は息子の家で、窓からの花見、今日は、平日の午前中、人の少ない大学内の花見となった。
(写真は「ICU正門からの花のアーケード)

女の長話 

田辺聖子の小説に「女の長風呂」と言う作品があったような気がするが(この辺は自分の記憶だけで書いているので間違っていても責任は持たない)、私は長風呂はしない代わりに、「長電話」「長話」はよくやる。
「あの人は、話題を途中から自分に引き寄せてしまうから困る」などという陰口をきいた連句仲間の男が居たらしいが、ナニ、自分を主にした話に持って行くところは男のほうが多い。
女は、自分の経験に基づいて言うだけだから大して罪がないが、男のほうは、自分の言いたいことを天下国家の話にして、何となく相手を説得してしまう技を心得ているので、それが、マスメディアの人間だったりすると、少なからぬ影響を及ぼす点、罪が重いと思う。

さて、今朝掛かってきたのは、昔職場で一緒だった女性からで、前置きとして、最近の世相や、自然災害や、高齢者をターゲットにした詐欺事件や、笑い話になったりする程度の体の衰えなどの話が続き、「10月に一度集まらない?」という話が出て、こちらが本題であった。

私が社会に出て勤めた会社は、当時銀座に本社を構えていたが、同じ部署で働いた人たちのうち何人かが、細々とではあるが、今でも何かしらの交流を持っている。
4年半の在社中、部長、副部長はじめ、仕事上の関わりを持った人たちは沢山いたが、退社後も付き合いがあったり、その後の数十年の人生の中で、消息のわかる人たちは、ごく少ない。
元上司、先輩社員達は、長い間には、亡くなったり、行方がわからなくなったり、私のほうも、夫の海外転勤に伴う移動も含め、何度も住所が変わり、「あの人、どうしてるかしら」という対象になっているかもしれないが、そんなこんなで、今でも、年賀状をやり取りしたり、電話をかけたり、顔を合わせる可能性があるのは、私の1年後に入社した女性1人、男性1人、私の退職した年に入社してきた男性ひとり、この4人位である。

前回彼らと会ったのはいつだったかと、調べてみたら、SNSの非公開日記に、昔読んだ小説のタイトルを借りて、私の「されどわれらが日々・・・」を書いてあり、2008年10月終わりとある。
そうか、あれからもう6年近く経つのかと、感慨深いが、その日記に出てくるセツコが、今朝の電話の主で、毎年「今年も一度会いましょう」と年賀状では書きながら、いつの間にか時間が経っていたのである。

長い前置きの後、本題に入り、ヒロシは昨年奥さんを亡くして以来、元気がないので、10月に呼びかけて、銀座で会いたいけど、どうかという提案だった。
もう1人の男性、トシキも、あまり調子が良くないらしい、結局女のほうが元気なことになるのかしらという話になり、セツコが場所を決め、、ヒロシに都合を訊き、改めて調整すると言うことで、いったん長い電話が切れた。

その間、亭主のほうは放っておかれたが、仕方がないと思っているのだろう。
遅い朝食を済ませ、しばらくしてセツコから再電話、ヒロシと連絡でが付いたので、彼の都合に合わせて10月30日に、銀座で女子会ランチに招待と言うことになったらしい。
トシキはやはり無理らしいと言うことで、今回は誘わず、次の機会(いつになるかわからないが)に譲ることにした。
今度は「長電話」にならずに終わった。
「われらが日々・・」の続きを語り合うのが、今から楽しみである。

「忘れられた引き揚げ者」-ETV番組から

「忘れられた引き揚げ者」-NHKのETV番組を見ながら、メモし、感想を交えて書いた。

終戦後、今の北朝鮮に多くの日本人が帰れないまま現地に取り残され、途中で死んだりしている。
67年ぶりに、現地を訪れて、遺骨収集した人の姿や、当時の状況など。
先日読んだ「ヨーコ」の体験記にも書いてあった。
同じ年頃の子供だった男性の話もある。

伝染病が蔓延、食べ物もない中、冬に同胞のうち1割が死ぬという予測の元、自分たちの墓穴を掘った話、実際には4分の一が死んだという。
満州、南朝鮮、中国などと違い、ソ連が支配した北朝鮮で、より多くの日本人が帰還できなかった。
それを番組で解明する。
国家というものが事実上存在しなかった土地だったからか。

アメリカは民政軍だったのに、ソ連は軍政軍だった。
民間人に対する国際法上の取り決めがない中、アメリカはいち早く日本人を帰したが、それには、アジアにおける日本の影響を早く取り去りたいという思惑もあったという。
敗戦予測を、日本は真剣に考えなかった?
また海外統治の負の結果責任を、在住日本人が引き受ける結果になったのか。

昭和21年1月に、ソ連のモロトフは、日本人を帰還させる考えを示していた。
23万人の日本人引き上げに、どのくらいの船が必要かという試算までしていたのに、なぜ実行されなかったか。
待ちきれない日本人が北朝鮮からの脱出をはかり、38度線を自力で越えた人たちは、助かった。
途中で死んだ人も多かったという。

ソ連軍のサインとロシア語のスタンプのある移動許可証が残っている。
ソ連は事実上黙認していたとも言われる。
20万人の日本人は自力脱出、遅れて帰還事業を始めたソ連の手では8000人。
朝鮮戦争にかり出されたり、スパイ容疑で処刑された人たちもいたらしい。

子供の記憶として語る人たちは、今、すでに80歳を超えるほどの年になっている。
その中に自分の意志でなく、北朝鮮の男性と結婚させられた「日本人妻」もいる。
北朝鮮からの引き上げに、なぜ政府の関心がいかなかったのか。
満州の引き上げ、シベリア抑留に、中心が移ったからか。
今も北朝鮮には、2万5千人の遺骨が埋まっているという。

本当に過酷な体験をした人たちが語れるようになるのには、長い長い時間がかかったのだろう。
運よく生きて帰れたことにも、口を閉ざすほどに、心の傷も深かったのかもしれない。
でも、個人の体験にとどめず、語ってほしい。
今でも戦闘のある地域の人たちや、これからの子供たちのためにも。

木下恵介劇場を見ながら

銀河チャネル「木下恵介劇場」で、1968年のテレビドラマ「3人家族」をやっている。
山田太一脚本のホームドラマ。
両親揃って、時々ケンカはするが、基本的には平和で破綻のない中産階級の延長線上にあったドラマとは、ひと味違っていた。

長く夫と別居中の母親と二人の娘、もう一つは、定年を迎えた父親と息子二人の男所帯。
竹脇無我と栗原小巻の若いカップルの恋愛と結婚を、双方の家族が絡んで見つめていくドラマ。
あおい輝彦、沢田雅美なども出演。
44年前の青春ドラマ。よく覚えている。
ステレオと言う物を聴き、びっくりしているシーン。
そう言う時代だったなあ。
竹脇すでに亡く、コマキストと言われた男性達のアイドルも老境に入った。

2年間の海外勤務が決まり、彼女との先の約束を躊躇する男。
相手の娘は、妹と母親の3人家族。
「そんな男と付き合って何かあったらどうするの」と娘を責める母親。
「何かって何よ」「何かというのは、決まってるでしょ」。古典的な親子ゲンカ。
双方の親はそれぞれ二人の行方を心配する。
私は2歳の子どもを育てている最中で、出歩くことも出来ないので、テレビドラマはいい娯楽だった。

この時代の定年は55歳だったと思う。
このドラマの父親は、かなり老けて見える。私の父がこの頃そのくらいだった。
今の55才は、男も女も、まだまだ脂ぎってるなあ。時代の差か。
あおい輝彦の主題歌がいい。

ドラマの母親の「女の学生まで講堂なんか占拠して・・・」というセリフ。
そうか、このドラマが放映された1968年(昭和43年)は、安田講堂が占拠されたり、世界的にもいろいろな出来事があった年だった。
翌年東大入試中止。
三島由起夫の事件がその翌年の45年。
http://shouwashi.com/1968.html

この年のはやり歌、ピンキーとキラーズの「恋の季節」は新鮮だった。
おんぶした息子が背中で、この歌を歌っていたのを覚えている。
子どもにも歌いやすかったのだろう。
「恋」なんて言葉の意味を実感するのは、10年先になっただろうが・・。

この年に起こった3億円事件の時は、全く事件に関係ない青年が犯人扱いされて、気の毒だった。
当時読んでいた毎日新聞のスクープ記事だったが、それ以後購読を止めた。
事件は迷宮入りのまま、今に至っている。

記憶の中の一日

そうか、今日は三島由紀夫の命日でもあった。
昭和45年11月25日。享年45歳。
夫が会社から電話で知らせてくれて知った。
「テレビ、見てご覧」というので、点けてみた。
衝撃だった。言葉も出なかった。

翌日、父から、妹が食事もしないで泣いているから、何か言ってやってくれと、電話が掛かってきた。
全共闘世代の妹は、学生運動に挫折してから、三島に傾倒しはじめていたらしい。
私は、三島の「春の雪」を読んで、感動した頃だったが、妹に何か言ってやれたかどうか、記憶がない。
幼児を抱えた女には、毎日が忙しく、目まぐるしく過ぎていく日乘でもあった。

その頃「題名のない音楽会」と言う番組は、は黛敏郎が司会者だった。
三島とも親しかった黛は、追悼として、三島の愛したというワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の序曲を番組で流した。
三島の葬儀では、村松英子が弔辞を述べていた映像が記憶にある。