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冬夕焼

どんな季節の夕焼けよりも

私は冬の夕焼けが好き

彷徨う旅人にも

傷ついて涙に暮れるオンナにも

癒される色を持っているから

文化人類学を覗く

私の住む市には、駅前に「ネットワーク大学」と称する市民大学があって、さまざまな講座を常時開講している。
勿論、学校教育法に基づく「大学」ではなく、昔から市民対象に、コミュニティセンターや市民会館で、講師を招いて行っていた市民対象の講座の一部分を、少し発展させたものである。
市民会館では、昭和40年代から、生活に密着した内容の料理、手芸、子育て、語学、最近はパソコンなどの実利的なものの他、歴史や環境、文芸批評などの学習型のものがあり、多くは受講料無しの市民との共同運営型で、行って来て、今でも、保育付きの講座などは続いている。

その中から、人文学的な内容のもの、科学や芸術に関するものを、インターネットも導入しながら、大学レベルのプログラムで、と言うことで、大学教員出身の女性が市長になって以来、こういうことに力を入れるようになり、駅前の新しい施設で、新しい試みとしての「大学」が出来上がった。

市内や、近隣の市の大学と提携して、講師を派遣して貰ったり、講座そのものを共同で作ったり、働いている人も出席しやすいように、平日の夜や土曜日の午後に講座時間を設けるなど、工夫してきたが、かなり軌道に乗ってきたようだ。
3年前の開講当時は、市が面倒を見ていたので、受講料は1回1000円足らずだったが、最近、独立法人の形態を取り始めてから、都心のカルチャーセンターほどではないが、受講料も結構な額になった。
それでも、バス一本で行けるので、面白そうな講座が開講されると、申し込む。

今回は、「異文化を眺める」というシリーズの6回目。
「”文化”の綴り方教室」という副題が付いている。
シリーズだが、私は今まで曜日が合わず、今回初めての受講である。
行ってみると、半分くらいは、シリーズ始まってからの、最初からの継続受講者。
講師はバリバリの現役で、エネルギーが溢れている。

渡辺 隆宏(わたなべ たかひろ)アジア・アフリカ語学院講師。

文化人類学、言語学、モンゴル語担当。東京生まれ。
日本モンゴル学会、見世物学会、現代風俗研究会会員。

講座の内容は、なかなか刺激的で、面白い。
一つ面白いものを紹介されたので、書いておく。
現在では、ほとんど姿を消してしまった「見せ物小屋」が出るというので、行ってみたいが、人出も多そうなので、体力が必要かも知れない。
「新宿花園神社のお祭り」
http://www.hanazono-jinja.or.jp/mt/top/

借りて返して

時雨るるや借りて返して借りる本

こんな句を詠んだことがあった。
図書館というのは、本を借りるだけでなく、いろんな情報の得られる場所であり、時間のあるとき、ゆったりと過ごすのに、最適なところである。
きのう、小春日和の一日、久しぶりの晴れ間に、家事もいろいろ片づけ、夕食の支度まで間のある午後、図書館に行った。
11日までに返す本が3冊あったのを、忘れてしまっていた。
返すのが遅れると、次が借りられないことがあるので、慌てたのである。
曾野綾子のエッセイ2冊と、佐伯泰英の「瑠璃の寺」という小説。
「瑠璃の寺」は面白く、まだ途中だが、一旦返すことにした。
「2日くらいの遅れでしたら、大丈夫ですよ」と言われ、早速次の本を借りるべく、棚を見て回る。

私の家から徒歩5分もかからない市立図書館は、開架式である。
マナーの悪い人がたまにいて、新刊の写真本やグラフィック雑誌など、時々無くなったりする。
イギリスでは、図書館を出るとき、電磁波で通したりして、ミッシングを防いでいたが、日本の公共図書館も、もっと本を守る手立てを考えた方がいいのではないだろうか。
誰でも、自由に、読みたい本を手に取って見られる開架式は、すぐれたやり方だが、市民のモラルが前提になっているのだ。
きれいな画像入りの本から、写真のページを切り抜いたり、ボールペンで書き込みをしたり、無神経に折り目を付けたり、いずれも、許されないことだと思う。

今日借りてきた本は下記の通り。

雑誌「思想」2007年10月号ー「シューベルトの時代ー芸術家の肖像」(岩波書店)
石井誠士「シューベルトー痛みと愛」(春秋社)
作曲家別名曲解説ライブラリー「ロシア国民学派」(音楽之友社)
ポポノフ/広瀬信雄訳「ロシア民族音楽物語」(新読書社)

音楽については、コンサートに行ったり、電波や器械で聴いたり、自分で唱ったりするだけで、本を読むことはほとんど無いのだが、シューベルトやロシア音楽について、少しばかり知識の必要性を感じたので、借りた。

多田智満子「神々の指紋」(筑摩書房)
多田智満子「花の神話学」(白水社)
多田智満子「宇宙自在ことばめぐり」(河出書房新社)

詩人多田智満子の詩は読んだことがあるが、散文や論文は読んだことがない。
最近ご縁の出来たブログ「辻乃森音楽師」で、辻乃森さんが、多田智満子の論を盛んに取りあげているので、興味が湧いたのである。
目的の「鏡のテオーリア」は、在庫になかった。

宮部みゆき「楽園上」(文藝春秋)

宮部本は、人気があり、古い作品しか棚にないことが多いが、これは昨年出版になった、比較的新しい物。
誰かが上巻だけ返したばかりらしいのが、置いてあったので、借りてきた。
下巻は、その内に空くだろう。

転ぶ

昨日、合唱の練習からの帰り道、道路で転倒してしまった。
引っかかるところのない様な、歩き馴れた平坦な道。
どうして、あんな処で、転けてしまったのか、解らない。

私は、仲間達と、お喋りしながら一緒に歩いていて、あと数メートルで駅に着く場所だった。
右肩にショルダーバッグ、左手に、楽譜や防寒用ストールの入った手提げ。
バッグは、大きめの物が好きで、なんでも入れるので、女性用としては重い方である。
でも、中身は大体同じで、昨日が特別ではなかった。
合唱の練習場である教会から、駅までは、1人だと5、6分だが、人と一緒の時は少しゆっくりなので、7分くらいかかっているかも知れない。
週に一度の練習は、夜7時から9時までである。

昨日は、4時からヴォイストレーニングがあり、終わって、練習までに2時間空いたので、ちょっと寄り道をした。
いつもなら真っ直ぐ練習場のある駅まで行って、途中のファミリーレストランで、軽く何か食べていくところだが、急に思い立ったことがあって、ルートを変えてみたのである。
しかし、初めて試みたルートは、思わぬ時間が掛かり、練習時間に、間に合わなくなりそうなので、軽食を摂るのを諦め、飲み物のボトルだけコンビニで買って持っていった。
昼食が遅かったし、あまり空腹も感じていなかったが、2時間の練習が終わる頃には、さすがにお腹もすき、疲れてもいた。
でも、こんなことは、珍しいことでもないし、自宅まで1時間足らずで帰れるのだからと、あまり気にしていなかった。
いつものように、合唱仲間の人たちと、話をしながら、普通に歩いていて、急にバランスを失ったのである。

爪先が、ちょっと引っかかったことは意識したが、普通なら、そのくらいで転ぶことはない。
それが、バタンと、見事に前につんのめるような形で、転んだのは、どうしてだったのか、思い出して見ても、不思議である。
「魔が差す」という言葉があるが、そんな風にしか説明が付かないことであった。

一緒に歩いていた人たちがビックリして、手を差し出す間もなく、私は自力で起きあがり、何に躓いたのか、振り返ってみた。
そこは、駅まで続く細い道で、アスファルトと砂利が混在している部分があり、左右が多少でこぼこしている。
雨が降ると、水が溜まったりで、あまり愉快な道ではない。
しかし昨日は、晴れていたし、滑るような箇所はない。
ただ、縁石のような出っ張りがあるので、いつも、あまり気にしないで歩いているが、なにかの拍子にそれらのどこかに引っかかったのだろう。

両手は物を持った状態で、前に倒れたのか、持ち物は投げ出してもおらず、手が汚れてもいない。
スカートも、切れたり汚れたりしていない。
履き慣れたズックシューズだったが、船底で踵はそれほど高くないので、引っかかったとすれば、爪先が、ほんのちょっとした出っ張りに当たったのだろう。
年を取ると、爪先が上がりにくくなり、躓きやすくなるので、踵から足を下ろすよう、気を付けているが、その時は、話に夢中になって、足元に神経が行ってなかったと見える。

「大丈夫?」という、廻りの声を聞きながら、何とか立ち直って、歩き出した。
前を歩いていた男性が、「凄い音がしたよ。骨を折ったりしていない?」と心配してくれた。
両膝頭が痛いのが解った。
かなりぶつけたらしいが、骨が折れたと言うことはなく、捻挫でもなく、打撲の痛さだった。
恥ずかしいのと、早く家に帰りたいのとで、挨拶もそこそこに、同じ方向に帰る友だちと、電車に乗った。

そして、今日になり、やはり膝頭が青くなっている。
階段の登り降りがきつい。
以前、懸かったことのある整形外科は、休診日。
一日、家でおとなしくして、様子を見ることにした。
ゴミを出したり、鉢植えに水を遣ったりしたが、歩行に差し支えるほどではない。
家の中での作業も、出なければならぬ用事もあったのだが、全てパス。
明日、行きたいコンサートがあったが、チケットを買ってはいないので、それもパスしよう。
9,10と一泊の小旅行があり、それには行きたいので、それまでに痛みを治さねば・・・。

なんとも情けないことよ。
一日、憂鬱だった。
これからは、こんなことが多くなるだろう。
ボケのきっかけは転倒からである。
転んで骨を折り、入院したのがきっかけで、脳が退化してしまった人を知っている。
亡くなった父は、肺炎で入院し、点滴をしている2週間ぐらいの間に、大分老化が進んでしまった。
しっかりした連句の先輩が、入院先で、点滴にビタミンBを入れ忘れて、脳がダメになってしまった。
医療ミスだが、そんなことが、その時、病人に解るはずはない。
私は医療不信があるので、入院だけはしたくないが、そんなことになったら、どうしよう。
「ビタミンB、ちゃんと入れましたか」
「この薬、ホントに私のですか」と訊けるだろうか。
医者も人間だから、カワイゲのない患者には、辛く当たるかも知れない。

若い人には、この情けなさは、解るまい。
世の中の風潮は、年寄りを邪魔者扱いするようになってきている。
みな、数十年経てば同じ、明日は我が身なんだけどね。
体が、思うように機能しなくなり、それで、周囲から冷たくされたら、どんなに辛いだろう。
改めてそんなことを思ったアクシデントであった。

庭師来る

画像

歳時記にも載っている「庭手入れ」。
昨日から、庭師がやってきて、2人で、チョキチョキやっている。
例年、10月の終わりから今ごろに来てくれる。
もう17年も来ているので、要領が解っている。
特別な注文があるとき以外は、黙っていても、ちゃんとやってくれるのが有りがたい。
私は、10時と3時にお茶を出すが、昼は、彼らは弁当、お茶持ちで来ているので、何も出さない。
10時のお茶は、紅茶にクッキー、チョコレート程度、3時は、日本茶と和菓子、果物を添えて出す。
ベランダのテーブルに、お湯の入った魔法瓶、茶碗、トレーにお菓子を盛り合わせ、「ここに置きますから、適当にどうぞ」と声を掛けておく。
彼らは、頃合いを見て、休憩を取る。
そんな呼吸も、いつの間にか、定着している。

我が家の庭には、素人の手に負えない高い樹木が何本かあるので、年に一回は庭師を呼ばねばならないが、まる二日間、2人で、全部の手入れが済む。
以前は、木の数が多く、4人で三日間という時期があったが、家を建て替える時にかなり減らし、今は、4人手間で済んでいる。
それでも、切った枝や草だけで、軽トラック2杯分有るが、それも、全部持って行ってくれる。
これも、肥料になるらしい。
お茶と昼食の時間を除くと、動いている時間は、正味6時間半くらい。
手間賃はバカにならないが、欠かせない必要経費である。
バブルの頃から比べると、庭師の仕事は減っているようだが、腕の立つ人は、贔屓の客がいるので、あまり影響ないようだ。

今は日が短い時。
5時には薄暗くなってしまうが、運悪く庭灯が故障している中、昨日も、時間いっぱい働いてくれた。
庭の色味は、今、門の傍の山茶花と、石蕗の花だけ。
石蕗は、闇の中でも、黄色が映える。

はじめは、若者に近い年齢だった親方も、17年の間に、髪の白さが目立ってきた。