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逝く年に

日頃の怠けが祟り、歳末に慌ただしい思いをするのも、むべなるかな。
ここ2、3日は、昼間パソコンを開けるヒマがない。
幸い晴れた日が続くが、午後も3時になると、ベランダに差し込んでいた太陽の光も弱まってくる。
5時になり、もう電気の明かりでなければ、何も出来なくなったので、作業は止めて、束の間、机に向かう。
メールも、私的なものは、年末に来るという身内の一件のみ。
同性の友人達は、皆、年越しの準備で忙しい筈。
私の管理している文芸掲示板だけは、動いているが、正月3日までは、事実上休業状態になるだろう。
ただ、管理人は、時々ボードを開けて、不埒者が、変な書き込みなどしていないか、チェックしなければならない。
幸い、私の管理するものに限って、この6年間に、そのような事態は皆無であったが・・・。

この日記も、多分、これが今年最後になると思う。
あとは、SNSの音楽関係の記事で、編集中のまま、非公開状態にしてあるものを、なるべく、完成させて、年内に、公開しておきたいが、いつの間にか、10件近く溜まってしまった。
こういう物は、不完全な形でも、その時点で、書き上げてしまわないと、生の感想が薄れてしまうと、反省しきり。
今後は、タイトルと、プログラムくらいにしようと思う。
私は、音楽評論家ではないのだから、「良かった」「感動した」くらいのことで、いいわけだ。

1年は短いようだが、考えようによっては長い。
音楽も、読書も、創作も、未知の場所への旅も、美しいもの、素晴らしいものに巡り逢えることは、大きな喜びである。
そして、魅力のあるひと、心の通じ合える人と出会うことも、それに劣らぬ喜びであろう。
ネットに限ってみても、広い宇宙のような空間から、一粒の砂のように、触れ合った人との縁は、大事にしたいと思う。
でも、時には、かけがえのない宝物を無くすように、折角縁の出来た人とも、訣別しなければならないこともある。
お別れしましょうなどと、言葉にして言わなくても、お互いに脚が遠のき、音沙汰なくなれば、それは、やはり、別れと言えるだろう。
そんな悲しいことが、この一年の間にも、ひとつふたつあった。

ちょっとした言葉の行き違いに端を発したことは、お互いの誠実な対応の結果、修復可能な場合もあるが、どちらかが、もう、修復したいと思わなければ、それで終わりである。
はじめは、魅力のある人だと思って近づき、縁が出来ても、時間が経ち、ある程度見極めてしまうと、段々面白さが失せ、色あせてくるのは、仕方のないことかも知れない。
人間は、小さな存在だから、誰でもが、そんなに多くの物を、兼ね備えているわけではない。
興味の対象でなくなってしまえば、相手の気持ちを、読みとろうとしなくなり、付き合いを続けていくことの煩わしさの方が、先に立つこともあるだろう。
常に新たな出会いを求めていくタイプの人にとっては、未知なるものへの飽くなき好奇心と、どん欲さに勝るものはないのだから。

人は、誰かに出会い、触れ合うことで、影響を受け、それによって相手も変わっていく。
ある時、年下の人からそんなことを言われて、感銘を受けた覚えがある。
そして、自分のような者でも、誰かに、「あなたに会えてよかった」と言われたら、それは大きな喜びに違いないと思ったのだった。
でも、縁を持った相手に求めるものは、人によって違う。
利得のためとは言わずとも、純粋無垢だけではない動機もあるだろう。
特に、人生の途上にあって、自分自身を向上させ、膨らませ、より高く飛びたいと思っている人にとっては、必ずしも、全ての出会いが、プラスと思えないこともあるだろう。
人間というのは、時に非情だから、そんなときは、邪魔な物はどんどん棄てて、新しい出会いを求めていくのかも知れない。
折角巡り会って、大事にしたい縁の人でも、相手がそんな気持ちでいると解ったときは、「いままで有り難うございました。お元気で」のひと言を残して、潔く立ち去るのが、自分を貶めないための、賢いやり方かも知れない。
ただ、言えるのは、人間は、どんな人でも、ささやかな誇りを持って生きていると言うこと。
バランスシートや、人脈のために、人と付き合うのではないのだ。
それをわきまえていない人、相手の「五分の魂」を傷つける人は、どんなに才能があり、学識に溢れていても、私の友だちではない。

2008年よ、感動と刺激に満ちた1年を有り難う、そして、さようなら。

暮れの家事と黒沢映画

日付が変わってしまったが、24日のこと。
クリスチャンの人にとっては、大事なクリスマス・イヴ。
今歌っている所属合唱団は、中心になっている男性が、カトリック系の男子校出身なので、男声はその友人達がほとんど。
女声は、半分くらいか。
私も含め、クリスチャンでない人も、西洋古楽は、みな、キリスト教に関係が深いので、ミサやレクイエムの音楽を通じて、自然に、クリスチャンの人の行事や、歌う態度について、少しずつ知ることになり、有りがたいと思う。

さて、クリスチャンでない私は、きらびやかな飾り付けもせず、子供がいたときのような、クリスマスケーキも、プレゼントも無しで、日常のままに終わった一日だった。

朝、予約してあった歯医者に行く。
治療ではなく、歯の噛み合わせを直しているので、そのケア。
20分足らずで終わり、一旦家に帰る。
自転車だから、小回りが利く。
現金の補充が必要なので、近くの銀行端末でお金をおろし、眼科に行く。
公共機関の中なので、安全性が高い。
街中の現金引き出し機の場合、左右後ろを確かめてからでないと、下ろしたばかりの現金を後ろからひったくられることもあると言う。
なるべく昼間の明るいとき、しかも、後ろに長い列が出来ないような頃合いを見て、利用することにしている。
列が出来ていると、後ろの人を待たせてはいけない気になり、つい慌ててしまう。
今日は、ボックスの中に、おばさんが一人いるだけだったので、すぐ順番が来ると思ったら、そのあばさん、何件もの振り込みを持っていたらしく、7分程待たされた。
暮れだから、仕方がない。

眼科はものすごく込んでいて、検査、診察、投薬と、終わるまでに、2時間かかった。
緑内症の疑いが有るというので、片方ずつ、視野の検査をしている。
今のところ、眼圧を下げる点眼薬だけで、様子を見ましょうと言うことになっている。
終わったら、もう、昼の時間はとっくに過ぎていたが、これで帰宅すると、もう出るのがイヤになるので、そのまま外の用事を済ませることにした。
起きてから、牛乳一杯飲んだだけだが、体内に脂肪貯蔵庫が有るので、エネルギーはそこから湧いてくる。

1月12日のアンサンブル・カペラのコンサートチケットが届いたので、忘れないうちに郵便局で振り込み。
帰りながらスーパーに寄る。
自転車で2日分の食料を買った。
すでに2時半を過ぎていたので、手が掛からないよう、巻きずしを買い、待っていた夫と、遅い昼ご飯。
今日は、窓ふきなどするつもりだったのに、医者2件で思わぬ時間を取られたので、断念。
冬場の作業は、午後2時までが限度である。
3時過ぎると、もう気温が下がり始め、あっと言う間に日も暮れる。
毎年こんな寒いときに、なんで、忙しい思いをしなければならないのかと思い、正月なんて無ければいいと恨めしくなるが、仕方がない。
息子夫婦の部屋のレースのカーテンが、ところどころ傷んできたので、先日新しい物を買い、丈を合わせて貰った。
掛けるには、窓ふきを先にしなければならない。
何だかんだとごねて、家事を手伝いたくない夫に、「網戸は私が洗うから、窓ふきお願い」と言ってある。
本当は、網戸の方が大変なのだ。
多分夫は、どんなに忙しくても、会社に行って仕事をする方がいいと、内心思っているに違いない。

昼食とティータイムと合わせたような軽食が終わると、もう3時半。
ここで初めてパソコンを開け、メールや、管理サイトの連句の進み具合など、チェック。
そんなことをしているうちに、日が暮れてしまい、また台所に立つ時間。
あとは、いつもと変わらぬ経過だった。

夜、BSで連続して放映中の黒沢映画を見る。
24日は「八月の狂詩曲」。
その前の「影武者」、「乱」など、血なまぐさい物を見た後だったせいか、静かな日常の中に、メッセージを感じられるこの映画に感動した。
1991年の作品。
主演の村瀬幸子86歳。黒沢は81歳(?)。
セリフも、映像も、人の動きも、素晴らしく美しい。
長崎の原爆が、背景にあるが、1人の老女と、屈託のない子供達との交流を淡々と描いた中に、黒沢の怒りと、祈りが込められているように思った。
リチャード・ギアが出演しており、映画のあとのドキュメント番組の中で、「黒沢は国宝だ。あなた方は幸せだ」と語っていたのが、印象的だった。

有識者グループ、グーグル日本法人にストリートビュー停止を要求

きのう、忘年会のために、ある人の家に集まることになり、真っ直ぐ向かう人、おつまみなどをスーパーで調達する人と、二手に分かれて、行った。
私は真っ直ぐ向かうグループに入っていたのだが、案内役の人が、道を間違えて、遠回りになった。
他人の家というのは、何度か行っても、周辺の様子が変わったりすると、見間違うことがある。
「ああ、ここだここだ」と、すぐに解ったのだが、歩きながら、このストリート・ビューのことを話題にしてみた。
処が、あまり若い人が居なかったせいもあり、みな、そのことについて、知らないようだった。
でも、「ええ?、自分の家が出てくるの?気持ち悪い」と言うのが、共通した反応だった。
話しだけでも、そうだから、実際にネットで、自分の住所を入れて検索したら、もっとビックリするのではないだろうか。

おつまみを買いに行ったグループは、若い世代だから、「ああ、知ってますよ」と言う人も居たが、実際に人の家を探すには、普通の地図で充分じゃないの、と言う感想だった。
知っている割には、危険と捉えてはいないようだったが、現役で、日常の仕事が忙しく、そんなもの、見ているヒマはないと言うことらしい。
と、なると、実際にストリート・ビューを必要とし、日常的に活用している人たちの、主たる目的は、何だろう。
不動産業者、宅配業者、あるいは、自治体が、住民のプライバシーを、覗くためか。
いずれにしても、愉快なことには繋がらないように思う。
少なくとも、私は、知らない間に、自分の家が、ネットで晒されることは、拒否したい。

落ち葉降り止まず

イギリスにいたときのこと。
私の住んでいたのは、テラスハウスの一角だったが、広い共用の庭を囲むように、いくつかのハウスが建てられ、庭には、人が歩く道が付いていた。
そして、庭には、見上げるような大きなプラタナスの木がそびえ立っていて、ハウスの3階にある私の書斎の窓から、木の全貌がよく見えた。
イギリスの秋から冬は、雨風の激しいときが多い。
特に、強い風が吹くと、プラタナスの巨木は、全身が身もだえするように大きくうねり、ヒュウヒュウと鳴るさまは、女の泣き声とも聞こえるのだった。
時に私は、いつまでもそれに見とれてしまうことがあった。
風に揺れながらも、木の葉はしっかり枝にあり、滅多に落ちることはないように思われたが、後で、下に降りてみると、庭を埋め尽くす葉の多さに、ビックリするほどだった。
庭一面に黄色や茶に変色した葉が、降り積もり、庭番の男が、大きな籠を持ってきて、葉をかき寄せ、籠に詰め込むのだが、またすぐに一杯になってしまう。
そんな日が幾日、幾月も続いて、やがて、季節が変わると、今度は、待っていたように、水仙が咲き始める。
イギリス人の待ちこがれる春の訪れ。
道を歩きながら、笑顔で一杯の男の人が、すれ違いざまに私の顔を見て、

"Now! we are in spring!"

と言った事を覚えている。

このところ、風や雨を伴って、寒さが身にしむ頃になり、道路脇に吹き寄せられた木の葉の赤や黄色が目に付く。。
たまたま、ビルの窓から、ビデオ撮影したらしい、木の葉の揺れる映像を垣間見て、過ぎた日のイギリスの冬を思い出した。

冬晴れ

今日は良い天気で嬉しい。
窓を開けて空気を入れ換え、洗濯物を干す。
夕べは、セミナーのために、夜、駅前まで出かけたが、雨中の移動は寒かった。

きょうは資源ゴミの日で、紙類を出すはずだったが、8時に来る回収車に間に合わないことが多い。
前の晩が晴れていれば、夜中に出しておけるが、昨日は、大雨だった。
大きい紙袋にまとめて、すぐ出せるようにはしてあったが、8時前に起きていた筈の亭主殿は、すっかり忘れて、パソコンの前でカチャカチャやっており、私は深夜族だから、8時前には起きない。
何時に寝ても、私は熟睡型なので、きっちり6時間半経てば目が覚める。
8時半、「アラ、ゴミは?」と訊くと、「あ、そうか」と、慌てて一階に降りて、紙類を出したらしいが、時すでに遅しだった。

亭主が、リタイアしてから、家のことも、多少やって貰わないと、私の方は、リタイアできないのだからと、ゴミ一切の管理を任せたのだった。
「任せておけ」と、頼もしい返事だったのに、やはり、気持ちのどこかに、ゴミはにょうぼの役割と思っているところがある。
市から、ゴミの日程表を貰って、台所と、亭主の書斎に貼り付けてあるが、最近、忘れることが多くなった。
以前は、それで夫婦ゲンカになったりしたが、ある時、お互いにトシだから、仲良く暮らすために、もう、忘れたことを咎めるのは止めようと言うことになり、紙なんて、腐らないのだからと、出し損なったものは、勝手口の大きな箱に入れておく。
生ゴミ、プラスチックのゴミは、さすがにあまり忘れない。
これは、通年アレルギーの亭主だから、自分の部屋の屑籠が、使ったティッシュで、すぐに一杯になるので、実感があるからである。
だからその日になると、それらをまとめ、ついでに、台所の生ゴミを出すというわけである。
カラスなどに荒らされないよう、プラシチックの籠に入れ、上に、金網を被せておく。
ゴミを出したついでに、家の廻りの道路を掃くのも、亭主の仕事である。
だから、近所の奥さん達とは、亭主の方が友好的関係を保っている。
最初のうちは「奥さん、ご病気ですか」と訊かれたりしたらしいが、今は、男のゴミ出しは、珍しいことではないので、そんなことを言う人もなくなった。
そんな会話を、聴くともなく聞きながら、私の方は、パソコンをいじったりしているわけだ。

一人暮らしの老人が周辺にも増えてきたが、私たちでさえ、ゴミの管理は大変なのだから、もっと年配の人たちは、毎日違うゴミの回収に、ちゃんと対応できているのだろうか。
因みに、私の地域では、月木が燃えるゴミ、火曜日はビンと缶、それにペットボトルが1週おき、水曜日が紙/衣類の資源ゴミ、1週おきに不燃ゴミ、金曜日がプラスチックと有害ゴミ、と言う決まりで、各家庭にゴミのカレンダーを配布してある。
戸建ての家は、自分の家の前に出すので、比較的キチンと守っているが、集合住宅では、中には、全く無頓着な人もいるらしく、管理人さんは大変だろうと思う。
ゴミのための市の支出も、バカにならないと聞いた。
出し忘れなら、自分が困るだけだが、ルールを守らずに、自分のゴミをよその家に前に置き去りにしたり、生ゴミも、プラスチックも、構わずに詰めて出してあるのを見ると、腹がたつ。
いつか、幹線道路の歩道を歩いていたら、車が止まり、若い夫婦が降りてきて、何とゴミ袋を道路脇の大きな家の傍に置くではないか。
車の中には子供が居るというのに。
思わず咎める目を向けると、その夫婦は、こちらを見ないようにして、急いで走り去った。

・・・こんな事を綴っている間に、亭主殿は、お隣のご主人と打ち合わせて、深大寺に蕎麦を食べに出かけていった。
同じ年頃、お互いリタイアして、同じような価値観を持った人が近くにいるというのは、男の人にとって、とてもいいことだと思う。
そのお隣さんとは、親御さんの代からのお付き合い。
私たちが30代始めに引っ越してきたとき、私の親世代にあたる60歳くらいのご夫婦に、大変世話になった。
二人の息子さんは、別に住んでいて、時々来たときに、顔を見る程度。
それから30年あまり、親御さんを見送って、今は、長男夫妻が、親の家を建て替えて、暮らしている。
人柄の良い、品格のあった親御さん達に続いて、良い隣人に恵まれたと思っている。