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目にした物は

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むかし見たものか

それとも・・・

オーケストラの聴き方

雨の中、新日フィル6月の定期公演を聴きに行く。
「秘密」というテーマで演奏される年間シリーズ、今回は「消えゆく愛の残像」というタイトルが付いている。

2009年6月16日(火)19時15分開演/サントリーホール
演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮:クリスチャン・アルミンク
曲目? アルマ・マーラー:歌曲「夜の光」
        ソプラノ:市原 愛
         ピアノ:丸山 滋   
   ?グスタフ・マーラー:交響曲第9番ニ長調

演奏は休憩無しで行われた。
?は初めて聴いた歌。
アルマ・マーラー(1879-1961)は、グスタフ・マーラの妻。
32歳で夫に先立たれてから、2度の結婚をしているが、沢山の芸術家と交流があり、彼女自身も芸術的才能に溢れた人だったらしく、歌曲も作っており、「夜の光」は、グスタフと出会った1901年頃の作品らしい。
舞台には、フルセットのオーケストラ編成で演奏者全員が位置に着き、指揮者も指揮台に静止したまま、歌に耳を傾ける姿勢。
歌手とピアニストは舞台の表に出ず、正面の観客席から見えない左手の袖の処で、歌が始まり、遠くから聞こえ、突然途切れたように終わる。
漆黒の闇と光の対照を歌った不思議な旋律。
(詩:オットー・ユーリウス・ビーアバウム/日本語対訳:岩淵達治)
そのまま、一呼吸置いて、指揮者のタクトが上がり、?の、グスタフ・マーラーの「9番」が始まった。

この演奏会で、私は、今までにない体験をした。

私の席は、舞台に向かって、右サイドの二階1列目の右端から2番目。
サントリーホールで、この場所に坐ったのは初めてである。
右手上方にはP席があり、私の席から真っ直ぐ目を下ろすと、ステージを右側から真横に見ている位置になる。
左前方に指揮者が立ち、更に遠くに、一階正面の観客席がある。
指揮者始め、オーケストラの人たちの動きや楽器の様子が、よく見える位置。
音の聞こえ方はどう違うか分からないが、大変面白かった。
真下のコントラバスだけは、身を乗り出さないと視界に入らないが、日頃、正面の客席からでは、あまり見えない、後方の楽器と演奏者の動き、指揮者の表情が、よく見えたからである。

特に、段々目が吸い付けられてしまったのが、私の席から一番間近にあったテューバ。
あの楽器は、5キロから10キロくらいの重さがあるのではないだろうか。
若い男性の演奏者が、床に楽器を置き、自分の出番が近づくと両手で抱えて膝に持ち、いよいよと言うときに、また持ち直して、口元に当てる。
終わると、また、膝に戻し、暫く出番が途絶えるときには、静かに床に降ろす。
曲の展開によっては、テューバのラッパの部分に、弱音器のような筒を挟み入れる。
両手を駆使して、楽器を扱う様子と、頬を膨らませて吹いた時の、地の底から鳴り響くような低音が素晴らしく、次第に惹きつけられてしまった。
曲は勿論良かったのだが、私は、初めて目の当たりに見たテューバにすっかり魅せられてしまい、演奏者の動きと、楽器の醸し出される音に、夢中になり、そればかり追っていたような気がする。

これは、そのテューバの演奏者が、横顔しか分からないが、かなりのイケメンだったせいばかりではないと思う。
庭師が、大きなハシゴを立て、高い樹木に上って、鋏を動かす姿、長いトレーラー車の運転手が、道路の曲がり角で、神業のようにハンドルを操作しているときの真剣な表情、そう言うものに通じる「男の仕事」を見たときと同じ魅力を感じたのである。
新日フィルのプログラムノートには、当日のステージ編成が、図表で配布されるので、日頃馴染みのない楽器と演奏者名が分かる。
あの大きなラッパのような物が、テューバというのだという事も、それで分かったが、正面席にいたら、多分、特別に関心も持たなかっただろう。
曲によって、出番のない場合もあるので、大編成のオーケストラの時だけ、出てくるのかも知れない。
また、オケの左手後方はハープの位置になっていたから、もし私の席が、左2階席だったら、テューバでなく、ハープばかり見ていたかも知れない。
大編成のオーケストラを聴くときは、前の方のバイオリンやチェロなどの弦楽器、その後ろの管楽器くらいしか見えず、全体の音の響きの中で様々な楽器音が混じり、総合して聞こえてくる。
チケットを買うとき、声楽関係は、やはり、一階正面席の、なるべくステージに近いところを選ぶが、今回のような、楽器中心のコンサートは、席の位置を変えて見るのも、違う魅力がある事を発見した。

終わって外に出ると、激しい雨だった。
音楽会だからと、それなりの服装にしたが、出るときは雨。
夜は雨脚がひどくなるという予報だったので、足元が濡れないよう、靴は雨用に替え、体をすっぽり覆うレインコートを羽織り、長い傘を持って出た。
電車に乗ったら、誰も、そんな格好はしておらず、ちょっと気恥ずかしかったが、やはり雨対策の用意で出て来て良かったと思った。




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ふーん(その2)

旧世代の人間には、理解出来ないような社会現象については、上のタイトルで、書くことにする。
私は、誰にでも好かれる人間でありたいとは、必ずしも思っていないので、何かについて、直感的に「イヤだー」と思ったら、その第一印象を、変えるのは難しい。
広い世の中、私が「イヤだー」と思ったところで、現象が消えるわけで無し、ましてや、何の影響力もないだろうから、歯に衣着せず書く。

私が今、耳に入ってくる言葉の中で、一番不愉快に感じるのが、「コンカツ」なる言葉。
最初、一体何のことだろうと思った。
「ええ?トンカツ?」と思ったくらいだ。
カロリーが高いので、メタボ危機にある人たちから、真っ先にやり玉に挙げられそうな揚げ物の代表格であるトンカツ。
実は私は大好きなのだが、自分で、おいしく揚げられる自信がないので、ごくごく偶に、おいしそうなトンカツ屋さんを見つけると、食指が動くくらい。
亭主のほうも、家ではなかなか出て来ないトンカツを、私の居ない留守には、店で揚げたてのを買って、キャベツだけ自分で刻んで食べているらしい。
近くのスーパーでも、ヒレカツの一枚350円くらいの物なら、結構おいしいという。
そのトンカツが、今や、何かのきっかけで、見直されているのかと思ったのである。

サテ、書きたいのは、トンカツの話題ではなかった。

先月、学生時代の合唱団の集まりで、誰かが「婚活」という言葉を出して、話題にしたので、私は怒った。
「そんな品のない言葉を使わないでよ、若いモンならしょうがないなと聞き流すけど、何も、我々が、迎合することはないでしょう。大体、音の響きとしても、美しくないわよ、トンカツじゃあるまいし」

学生時代から、私のストレートな物言いに慣れている彼等だから、そのことは、「分かった、分かった」で終わりになったが、孫もいるような世代の集まりで、こんな言葉を聞こうとは思わなかった。
でも、私の方も、今はやりのアラサーとか、アラフォーとか言うことばを真似て、「私たちだって、アラカン(還暦前後)とか、アラコキ(古希)だなんて言われるのかしら」といって、「もう、50歳過ぎれば、そんな言葉の対象外なのよ」と反論されたのだから、人のことは言えない。

でも、これは一種の言葉遊びだから、自嘲で済む話だが、結婚を真剣に考え、本当に結婚したいと思っているなら、「コンカツ」なんて言葉を使っちゃいけないと思う。
日本語は、省略しやすい言葉だから、新しい言葉も、すぐに略語が出る。
「就職活動」が「就活」になり、一般化して、その延長線上に「婚活」も出てきたのだろうが、耳に入ったときの音の感じといい、字面といい、どう見ても、美しくはない。
結婚活動の中身というのは、一体どんな物なのか、コンカツの当事者に訊きたい気がする。
もし私が、結婚相手を探している男性の、お見合いの世話をしたとして、相手が容姿端麗、学歴上々の女性であっても、口からそんな言葉が出たら、私は、「考え直した方がいいんじゃない」と、彼に忠告する。
人生を、言葉と同じくらい、軽く、甘く見ているような気がするからである。

さて、このこととは、違うが、こんな記事を読んだ。
http://news.walkerplus.com/2009/0527/35/

昔、働いていた会社で、社長始め、役員の秘書をしている女性達は、何故か、皆、独身だった。
もっとも、男性上位の当時のこと、奥さんになってまだ、働いていると言うことが、レアケースではあったのだが・・・。
頭がよく、人間的にも、良くできた人たちで、さすがだなあと、感心してみていた。
中でも、社長秘書は、30代前半の女盛りで、飛び切りの美人だったが、結婚の話が沢山あり、婚約までした相手がいたというのに、どういうわけか見送ってしまい、その内に適齢期を過ぎてしまったと言う噂だった。
いつも、お金のある社長級の人たちとばかり接しているから、普通のサラリーマンには、魅力がないのでしょう、今更、中途半端に妥協はしたくないだろうし、やはり、女は引け時というか、結婚する時期というのはあるわねえと、先輩女性社員から聞かされたが、これは、当時の常識的な見方である。
「今まで費やした時間を考えると、今から生活レベルを落としてまで、結婚しなければとは思わないでしょう」というのが、ごく普通の見方だった。
私が、5年後に退社するまで、秘書の女性達は、そのまま働いていたが、彼女たちが、仕事上のパートナーという立場だけで、社長族と付き合っていたのか、別の要素が絡んでいたのかは、私の知る処ではなかったし、その後の人生については知らない。

まだ現役だった頃の亭主が話したことだが、上司に食事を奢って貰うのが好きな女性は、少なくないらしい。
若い女性に食事を奢ったくらいで、妙な間柄になることはないが、奢られ方にも、それなりのルールがあり、観察していると、女性の本性みたいなものがよく分かるので、あながち無駄にはならなかったそうな。
「きみも、男に奢って貰うときは、気をつけなさい」と言われたが、残念ながら、そんな機会は、ほとんど無く、いい年をした男女が、安い居酒屋で、下手な文芸論議を闘わせながら、ワリカンと言うことばかりである。
そして、リタイア組のオトコ達は、概してケチなので、飲まない女性達にも、同じ料金を払わせて、彼等の飲み代に当てているのである。
ある年齢を過ぎたら、女のほうが、鷹揚になると言うことであろうか。

この記事の中で、既婚男性との食事に抵抗なくOKと答えた女性達について、ふと、ウン十年も昔のことを思い出した。
羽振りのいい、既婚男性に、始終食事を奢って貰い、満たされたような気になっているうちに、地道な結婚が遠のいてくる。
オトコは、滅多なことでは、家庭を捨てないし、人生を棒に振るようなことはしないから、二重生活も、限界がある。
その内に、気がつくと、あれほど輝いて見えた火遊びの相手が、ケチなジイサンになっている。

・・・などと想像するのは、意地の悪い見方であろうか。

積ん読になりそうではあるが・・・

今日、駅前コミセンに行った折り、本を何冊か借りた。
この前借りた本のうち、辺見庸の作品3冊を返す。
辺見庸は、脳卒中で倒れ、暫く休筆していた時期があったらしい。
最近、あまり読んでいなかったので、ずっと知らずにいた。
「物喰う人々」はじめ、いくつか読んでいるが、今の私には、倒れた後の辺見の著書は、ちょっと辛い。
借りてきた本は、最近のエッセイだったが、1冊読んだだけで、あとは読まずに返した。
彼の本を読むには、ちょっとエネルギーが要る。

まだ辺見が登場しない頃、松下竜一の本をよく読んだ。
辺見と、どこか共通するところがある。
自分が世の中を変えるほうの人間だと言う意識のある若い時は、彼等の本はすっと同感できる。
でも、今は、世の中の動きは、自分の知らないところで変わっていく。
あれよあれよである。
そうなると、もう、これらの本は、シンドイ。
しかし、以前に増して、ラディカルで、筆力も衰えていないのは、さすがだ。
健康を損なったために、いま書かねばと言う意識が溢れ、命を削っているように思われて、一行読む毎に、こちらの身が、きりきりと痛むのである。

今日借りてきたのは、下記の物。

澤地久枝 「自決 こころの法廷」
佐藤 勝 「獄中記」
辻井 喬 「父の肖像」
高橋源一郎「ニッポンの小説ー百年の孤独」
佐藤愛子 「今は昔のこんなこと」

佐藤の本は新書なので、図書館の立ち読みで、半分近く読んでしまったが、借り出してきた。

ひと月前に借りて、2週間の期限に読み切れずに一度更新した、磯山雅「バッハー魂のエヴァンゲリスト」と「マタイ受難曲」は、読み終わっていないが、4日の期限を待たず、一旦返すことにした。
借りて返して・・・で、積ん読のまま返すという例が多いのは、やはり、読書のスピードと、集中力が衰えているからだろう。

そのくせ、インターネットは始終触っている。
パソコンの電波が届かないところにいないと、落ち着いてじっくり読むのは、なかなか難しい。